高月院は、愛知県豊田市にある寺院。
 徳川家の祖である松平氏の発祥地とされる旧三河郡松平郷にあり、松平氏の菩提寺である。
 堂宇などの整備、修繕に際して、徳川将軍家からの援助は江戸期から明治維新まで続いた。
 松平氏の初期状況を伝えることから、国史跡「松平氏遺跡」の一部になっている。
 司馬さんは、高月院に何度か訪れており、“私の脳裏にある日本の諸風景のなかでの重要な一風景”、と言う。
 ところが、取材で行った高月院に失望し、“私の脳裏にある清らかな日本がまた一つ消えた。”と悲しむ。
 この取材から出版された『街道をゆく』が、シリーズ最終冊となってしまった。

…省略…

こんども、その松平郷をめざした。

「高月院は、いいですよ。」

私は、編集部の村井重俊氏に、あらかじめ、わがことのように自慢しておいた。

 白壁の塀だけが、唯一の贅沢だった。規模は小さく、建物もやさしくて、尼僧の庵のようであり、いずれにしても私の脳裏にある日本の諸風景のなかでの重要な一風景だった。

 …(省略)…

 高月院までのぼってみて、仰天した。清らかどころではなかった。

 高月院へ近づく道路の両脇には、映画のセットのような練り塀が建てられているのである。

 それだけでなく、神社のそばには時代劇のセットめかしい建物がたてられていて、ゆくゆくは観光客に飲食を供するかのようであり、そのそばには道路にそって「天下祭」と書かれた黄色い旗が、大売出しのように何本も山風にひるがえっていた。

 高月院にのぼると、テープに吹きこまれた和讃が、パチンコ屋の軍艦マーチのように拡声器でがなりたてていた。この騒音には、鳥もおそれるにちがいなかった。

 この変貌は、おそらく寺の責任ではなく、ちかごろ妖怪のように日本の津々浦々を俗化させている“町おこし”という自治体の“正義”の仕業に相違なかった。

 私の脳裏にある清らかな日本がまた一つ消えた。

 山を怱々に降りつつ、こんな日本にこれからもながく住んでゆかねばならない若い人達に同情した。

(『街道をゆく43 濃尾参州記』、「高月院」より)

 司馬さんのこの文章を読んで、自治体など関連する方々は、おそらく改善に取り組んだのではないかと思うが、どうであろうか。